2026.08.15
「好きか嫌いか」で決めるということ
私が思想として掲げていることの一つに、「好きか嫌いかで決める」という考え方がある。
物事の価値観の捉え方には、大きく分けて「勝ち負け」「善悪」「好き嫌い」「損得」という4つの軸があると思っている。この中で私は、「勝ち負け」と「善悪」に対しては、少し怖さのようなものを感じている。
「勝ち負け」という軸の怖さ
勝ち負けというのは、そもそも前提条件があってはじめて成立するものだ。サッカーであれば、ゴールを決めた方が勝ちというルールがある。でも、もし「華麗なボールさばきをした方が勝ち」というルールに変わったら、勝敗を決める尺度そのものが変わってしまう。つまり勝ち負けとは、あるルールの中で戦うという条件を引いた上で、はじめて意味を持つ尺度だ。そこには「同じゲームに参加している」という前提が必要になる。
けれど、人生における価値観に、そんな共通のルールなど存在しない。それなのに「勝ち負け」という感度が高い人は、その人自身が定めたルールに、他人も従わなければならないという意志の束縛を、私に感じさせる。そういう人とは、そもそも前提が合わない限り分かり合えないだろうと感じてしまう。相当仲が良ければ理解できることもあるのかもしれないが、基本的には難しいと思っている。
「善悪」という軸の怖さ
「善悪」も同じ構造を持っていて、こちらのほうがずっと怖い。突き詰めると、戦争にもつながる話だと思う。何かを「絶対に良い」と信じることは、実はとても難しい。共産主義が良いか資本主義が良いか、ロシアが正しいかウクライナが正しいか、中国が良いか悪いか――そういう話では、本来ないはずだ。それぞれが信じているものに対して、その行動が好ましくないと感じたときに、人は「悪」という言葉を使う。つまり本質的には好き嫌いの話であるものが、「善悪」という強烈な言葉に置き換えられることで、相手をネガティブな存在、許しがたい存在に仕立て上げていく作業になっているのだと思う。
善悪について語り合うには、共通言語と共通の前提を置かない限り、そもそも会話が成立しない。それは一定の秩序を保つ上では必要なことなのだろうけれど、私自身は「そこはもういいじゃないか」と思っている。
「好き嫌い」という軸が好きな理由
だから私は、「好き嫌い」という軸が好きだ。好き嫌いは、圧倒的な主観だ。そしてこの主観に対して、他人がとやかく言う権利は誰にもないと思っている。それが私自身のルールであり価値観だ。好きか嫌いかということに、良いも悪いもない。ただそう感じる、というだけのことであり、否定されるべきものではない。むしろ、その人がその人らしく生きていく上で、とても大切にすべきものだと思っている。自分の「好き」「嫌い」をしっかり自分で意識できるようになることは、幸せな人生を生きる第一歩だと私は思っている。だからこのブランドにも、「好きか嫌いか、それだけでいい」という思いを込めている。
「損得」という軸について
もう一つ、私が大事な指標だと思っているのが「損得」だ。これは目に見えてわかるものだと思っている。お金の面で言えば、収入が支出を上回っているかどうかという、状態をそのまま表しているものにすぎない。飾りようがなく、そのまま現れる。そういう意味で、これも好きな指標だ。
人間関係を「愛と毒」のような形で語り、「自分にメリットがあるかどうか」という視点で捉えることについては、正直なんとも言えない部分もある。ただそれも、自分にとってのメリットという、自分自身の尺度における損得の話だと考えれば、外側から強制されるものが何もなく、自分の中で完結できるものとして整理できる。そこも、私がこの「損得」という軸を好きな理由だ。
このブランドが大切にしたいこと
というわけで、私にとっては「好き嫌い」という軸が一番であり、二番目に大事にしているのが、この「損得」――合理的、経済的な発想を持っている人、ということになる。そういう人たちとは、私は価値観が合うのだと思う。
だから私は、そういう価値観を持った人たちが集まるコミュニティに、このブランドの場を使ってほしいと思っている。そういう価値観を持ちながら、コーヒーが好きで、いろいろなおいしいコーヒーを飲みたいと思っている人たちと語り合いたいし、つながっていたい。これは、このブランドが大切にしている哲学の一つだ。